新潟商業制服変遷
新潟商業制服変遷
新潟県立新潟商業高等学校が創立して130年、その間母校の制服は何度か変ってきました。
制服の変遷から母校の歴史と時代背景をお感じ下さい
1883年
明治16年
1892年
明治25年
北越興商会付属新潟商業学校として創立
制帽が制定される。「商」の一字を帽章とした。
1883年(明治16年)、全国で6番目の商業学校として開校した。この頃の生徒は障子戸で仕切られた教室に座って授業を受けていた。規模も小さく、寺子屋のような学校であった。
当初、服装についての規定は無く、和服に各帯、前垂掛姿で授業を受けていたが、1892年(明治25年)より制帽を初めて定め、「商」の字の微章をつけた学生帽をかぶる事となった。
当時帽子の値段は授業料が50銭位のときに2円という高価なものであった。その後、1895年(明治28年)には、ジャケット型の制服を制定した。
1895年
明治28年
1905年
明治38年
1895年(明治28年)本科に制服が制定される。 ボックス型のジャケットを採用。
1893年(明治25年)制帽の制定に続き、1895年(明治28年)に、はじめて制服を定めた。
紺色ジャケット型ホック止めの洋服(詰襟、黒モールでふち取りした海兵式制服)で、その当時にあってははるかに時代の先端をゆくモダンな服装であった。
それまでの寺子屋のような装いの教室も、障子を板張りに、床も板敷とし、机も長テーブルと椅子に変えるなど、学校内も生徒の装いも急速に変貌していった。
予科生は当初従来通り筒袖の着物を着用したが、1898年(明治31年)に全校生徒が洋服となった。
帽章が二蛇両翼一星に改められる。
明治〜昭和初期の制服
現在も受け継がれている詰襟・金釦
1907年
明治40年
1930年
昭和初期
1942年
戦時中
1907年(明治40年)制服改定。 現在の男子制服とほぼ同型の詰襟・金釦となる。 夏服は純白の詰襟(~昭和初年)とし、 制帽には白線二本を配した。
制帽が1905年(明治38年)に現在の校章「二蛇両翼一星」に改められ、続いて1907年(明治40年)に制服改正を行い、詰襟、金釦の学生服とした。それまでのズボンの白い側章を除いて代わりに帽子に二本の白線をつけることとした。
現在の男子制服は、この時導入されたものとほぼ同型である。
夏服は上下とも純白の服とした。昭和初年頃にはこれに代わり霜降小倉の制服を着用するようになった。
小学校の児童が洋服を着るようになったのは昭和に入ってから、中等学校でさえ地方の中学校などは大正末期であったことと比べても、いかに時代の先端をいく服装であったか容易に想像できる。
太平洋戦争中は物資難などの理由から、国防色(カーキ色)折返し低襟服、戦闘帽姿の生徒が多くなった。
昭和40年代に入ると、服装規定に従わず制帽を着用しない者も多くなり、生徒総会などで議論が重ねられ、1969年(昭和44年)、着帽が自由化された。
この頃から、夏服に霜降小倉を用いるようになる。
戦中の物資難に伴い、この頃から国防色(カーキ色)折返し低襟服、 戦闘帽姿の生徒が多くなった。
冬服
夏服
1948年
昭和23年
1953年
昭和28年
1956年
昭和31年
1969年
昭和44年
1986年
昭和61年
男女共学を実施。 当時、女子生徒には制服の定めが無く、セーラー服、ブレザー、カーディガンなどを着用していた。
1953年(昭和28)女子制服を指定する。(全員に強制するものではなかった。)
1948年(昭和23年)より、男女共学となり、初年度は6名の女子生徒が新潟商業高校に入学した。当初、女子には指定の制服が無く、セーラー服やカーディガン、ブレザーなどを着用していた。
その後、女子生徒数の増加につれて制服制定の希望が、家庭と学校の両方からでてきた。そこで生徒の希望をまとめ、1952年(昭和27年)度末に現在の制服の型を指定したが、これは全員の強制するものではなかった。
制服はその後普及し、夏は白ブラウス、朱色のネクタイ、紺のベスト、冬は紺の上着(上着の下は自由)で通学した。通年ネクタイ着用となったのは1956年(昭和31年)頃である。
1956年(昭和31年)女子、通年ネクタイ着用となり、現在のものが定着した。
1969年(昭和44年)生徒会などの自主的な討議・決議経て、男子の着帽自由化に踏み切る。併せて女子生徒の服装規定を一部自由化する。
NCSマーク付のシャツ、ブラウスを導入。
参考資料
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葦原百年史
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葦原120周年史