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大田 浩

戦後新商の基礎を築いた第20代校長

 

大田浩校長

1964年(昭和39年)、新潟県で国体(国民体育大会)を開催する事が決定し、その準備に追われていた新潟市当局は、当時新潟商業高の校長であった大田浩のスポーツに対する知識と行政手腕に期待し、新潟市国体事務局長への就任を懇願し、大田校長は新潟商業高を去ることとなった。

1946年(昭和21年)3月に第20代校長として新潟商業に着任、以来16年余に渡り指導的役割を果たした大田校長により、新制高校となった新潟商業の校風が築かれたといえる。

大田校長が初めて白山浦の地を踏んだ1946年(昭和21年)、新潟商業の校舎は火災により校舎のほとんどを失い、焼跡には黒焦げの材木が放置され、生徒は分散して復興の見通しは全くなかった。その中で復興委員会を組織し、各方面への陳情や募金に自ら精力的に奔走された。

その当時、政府により“封鎖預金”が実施され、預金の引出しが制限されていた。大田校長はこれを解除してもらおうと算段したが手続きが困難であり、先ずは県知事の承認を得て、それから大蔵省の許可を得なければならなかった。ある時、どうしてもその日のうちに交渉しなければ間に合わないという時、大田校長は数時間後に県知事居場所を突き止め、知事の印が押された承認書を手にその足で上京、封鎖預金解除が実現した事があった。「並みの校長ではできまい」と、大田校長の熱意に同窓生、父兄らは心打たれたと言う。

 
新潟市から亀田・新津・五泉とあちらの方へも足を運びました。それで大体一万円口から探していったんです。随分これは強引な話だったけれど、それがまあよかったんですね。奉加帳でだいたい見通しがつきました。それから、あの頃の敦井さん、吉川さんと会社の方へも随分回った。(大田校長本人の談)
 

他方では、新潟県体育連盟(高体連)・高校野球連盟(高野連)の会長として新商だけでなく県下の高校体育の発展に貢献した。大田校長はつねづね生徒への訓話でも、たとえ勉強が出来なくてもスポーツに打ち込むとか、何か一つ取り得があれば人間として十分であると述べ、運動クラブ関係の優れた素質を持つ生徒を絶えず激励し、新商クラブ活動を盛り立ててきた。これが昭和30年代後半に未を結び、新商クラブ活動の黄金時代を現出させた。新潟国体開催が決定すると高体連会長の立場から、高校体育の飛躍的発展をはかり、持ち前の熱意と手腕で施設設備の充実と選手強化に取り組んだ。

1962年(昭和37年)9月末日、大田校長の離任式終了後、全校生徒が正面玄関(現在の生徒昇降口側)から蔵所堀(現・国道116号線)までの道路の両側に整列し、ブラスバンドが「別れの曲」を演奏するなかを、大田校長は胸を張り、手を振って答えながら、16年住み慣れた新商を後にした。九州男児らしい豪快さを本領とした大田校長にふさわしい退場であった。

(文中敬称略)

 

新潟国体(第19回国民体育大会)

1964年(昭和39年)、新潟県で初めて開催された国民体育大会。同年に東京オリンピックが開催される事から、秋季大会を春季大会として6月に繰上げ開催された。直後に発生した新潟地震のため、その後に予定されていた夏季大会は中止となった。同大会では新潟商業高の生徒や教員も参加した他、新潟商業高グラウンドはラグビー競技の試合会場にもなった。

封鎖預金

参考資料



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