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風間栄一

日本アマチュアレスリングの基礎を築いた五輪選手

 

ベルリン五輪にも出場した風間栄一

風間栄一(旧46回卒)は、戦前から戦後にかけて活躍したレスリング選手であり、のちに指導者としてレスリング競技のみならずスポーツ競技全般の普及や振興に尽力した、本県を代表する偉人の一人である。風間の残した功績については「新潟県体育協会五十年史」にも『日本のレスリング史においてもその大半を占めるほど偉大なそして輝かしいものである。』と記されている。

風間は1933年(昭和8年)年に新潟商業学校を卒業後、早稲田大学へ進学。在学中にレスリングの日本遠征軍に加わりハワイに遠征、翌年には柔道陣を破り第1回全日本ライト級選手権を獲得した。この時の決勝戦は、柔道の余技としてレスリングをやってもレスリングの専門家には勝てない事を実証したもので、日本のレスリングを確立した歴史的試合とも云われている。

その後、1936年(昭和11年)には ベルリン五輪にレスリング日本代表として出場、フリースタイル・ライト級で5位入賞を果たした。さらに1938年(昭和13年)に全日本学生選抜チームを率いて米国へ遠征し12戦全勝の驚異的な記録を打ちたて全米レスリング界を震撼させた。国内の大会では、1950年(昭和25年)までの間不敗を維持し、全日本選手権では2階級に渡り計10回の優勝を飾るなど、日本のアマチュアレスリング創世記に輝かしい戦績を残している。しかし、その後国際情勢の悪化によりスポーツ活動も中断を余儀なくされてしまった。

終戦間もない1948年(昭和23年)、風間はに新潟に戻り創設されたばかりの新潟商業高校・新潟高校のレスリング部の指導にあたった。また、新潟県アマチュアレスリング協会設立に参加し、新潟市を中心にレスリングの普及及び後進の育成に尽力した。

やがて1953(昭和28)年に新潟市で開催された「第1回風間杯争奪全国高校レスリング大会」では、新潟商業高校優勝を始め、新潟県勢の活躍が際立った。その後も風間らの尽力により新潟県はレスリングのメッカとして隆盛を極めていった。

この「風間杯」は、後に紆余曲折を経ながらも、『風間杯全国高校選抜大会』として現在も毎年春に新潟市で開催されている。この事からも、風間が日本のアマチュアレスリング界に残した功績の大きさを伺う事ができる。

新潟商業高校レスリング部もまた風間の意志を受け継ぎ、新潟高校、新潟明訓高校、北越商業高校(現北越高校)等と並び、新潟県勢を牽引してきた。

特に1962(昭和37)年には、春の選抜大会、夏のインターハイ、秋の国体(岡山)と、団体優勝三連覇を成し遂げた。さらに、1964(昭和39)年開催された第19回国民体育大会(新潟国体)においても、団体優勝に加え個人優勝3名と、華々しい成績を納めるなど、レスリング王国新潟県の一翼を担った。

全国三連覇を果たした昭和37年の新商レスリング部

風間は1953(昭和28)年に現役を引退した。その後は新潟県アマチュアレスリング協会会長、新潟県体育協会副会長等を歴任し、新潟県のスポーツ振興にも尽力した。また1964(昭和39)年の東京オリンピックでは日本代表チームの監督を務め、金メダル5個を獲得している。また、1987~88年(昭和62~63年)には、日本レスリング協会会長も務めている。

東北電力ビッグスワン内(バックスタンド側1階)にある「新潟スポーツ展示室」には、風間の功績を伝える資料や東京オリンピックの際に着用していたユニフォームなどが展示してある。

(文中敬称略)

 

風間杯全国高校選抜大会

1953年(昭和28年)7月、三笠宮・同妃殿下のご臨席を得て「第1回風間杯争奪全国高校レスリング大会」として開催されて以来、以後毎年5月に新潟市で開催されるようになった。1964年(昭和39年)の新潟地震により一時中断したが1970年(昭和45年)に復活した。1984年(昭和59年)の第28回大会から全国高等学校体育連盟の主催大会として承認され、インターハイに並ぶ高校レスリングの一大イベントとして毎年 新潟市体育館 で開催されている。

参考資料



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