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新潟商業の創設 尾崎行雄と北越興商会

全国で6番目の商業学校として開校

 
1883年(明治16年)
開校当初の礎町校舎

明治維新から間もない当時、産業界は急速に近代化が進み、東京や大阪を始め各都市で商法会議所が設立された。

新潟でも、当時新潟新聞の主筆であった尾崎行雄が主唱者となり、1881年(明治14年)『北越興商会』が設立された。『北越興商会』の発起人には、鈴木長蔵(新潟市長、新潟県会議長、新潟商業会議所初代会頭等を務めた)を始め、新潟の有力商人や政治家など70名余りが名を連ねた。

この北越興商会の主要な事業の一つとして、商業学校の運営が掲げられていた。

尾崎行雄は後に下記のように振り返っている。

 
「商事思想の普及については、新潟の有力な実業家を勧誘して、北越興商会というものを興した。これは一般に商業教育を目的とするもので、進んで付属の学校を建てる心算であった。尤も学校の方は、有志を募り計画を樹てただけで、私は急に新潟を去ることになったから、設立まで自分の手に行うに至らなかったが、しかしその年の十二月、同士の人々が私の志を継いで、予定通り学校を創立した」(尾崎咢堂全集第十一巻より)
 

本校創始者の一人 鈴木長蔵氏
初代校長 斉藤軍八朗先生

尾崎が新潟を去った2年後、会員の寄付により、1883年(明治16年)「北越興商会付属新潟商業学校」が新潟市中央区礎町通三ノ丁(現・クロスパル新潟の地)に開校した。

初代校長には、東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業した気鋭の知識人である斎藤軍八郎先生を招いた。 開校当初は、校長他教員1名、生徒16名、修業年限1年6ヶ月と規模は小さかったが、その当時商業学校は東京、横浜、大阪、神戸、岡山にしかなく、全国で6番目の開校に当たる。

この小さな商業学校が、現在の新潟商業高等学校である。

しかし、1885年(明治18年)、北越興商会が解散し、商業学校も存続が危ぶまれる事態となった。旧興商会幹部達の尽力によりかろうじて維持され続けたが、不安定な学校運営が続いた。この事態を受け1887年(明治20年)、商業学校は新潟区(後の新潟市)に移管され、公立校となった。

公立移管後も紆余曲折があったが、1890年(明治23年)には生徒数100名を越えるようになり、以降規模も大きくなり続け、学校の基盤は固まって行った。

一方、1896年(明治29年)、新潟商業会議所(現・新潟商工会議所)が設立され、興商会の保存書類の一切が引き継がれた。これにより名実共に興商会は消滅した。

尾崎行雄の呼びかけで設立された北越興商会は、結局消滅してしまったが、その使命と精神は現在でも、新潟商業高校及び新潟商工会議所に引き継がれ、新潟の経済の発展を支えている。


 

尾崎行雄

第1回帝国議会総選挙当選以来、連続24回当選を果たし、自由民権運動、普通選挙運動で活躍した、近代日本を代表する政治家。憲政の神様、議会政治の父とも呼ばれる。名誉衆議院議員の第一号でもある。1879年(明治12年)、福沢諭吉の推薦により若干22歳で新潟新聞の主筆を務め、新潟の政治・経済の近代化に尽力した。

北越興商会
参考資料



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