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廃校の危機と宇尾野校長の学校再建

更新日:2023年4月8日

新潟商業中興の士

 
1890年(明治23年)
第五代校長 宇尾野藤八

設立母体であった北越興商会の解散により存続の危機に瀕した本校は、1887年(明治20年)、新潟区(現・新潟市)に移管され公立の商業学校となった。財政的にも明るい見通しが開け、翌年には修業年限を3ヵ年とした。

1889年(明治22年)春、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した新進の大村励が3代目校長として赴任したが、彼はなかなかのハイカラな紳士で毎日自宅から人力車で登校する姿に生徒達は驚愕の眼を見張ったという。彼は生徒にも常々紳士道としての商道を訓するとともに生活にも洋服を採り入れた。このときから教師は洋服を着用し、教室の区切りは障子から板張りに床も板敷となり、机は長テーブルと椅子に変わった。

しかし、大村校長は僅か半年で辞任し新潟を去ってしまった。市当局は後任として10月に新潟市立高等小学校長の鈴木雄二郎氏を、兼任のまま商業学校長に任じたが、これが契機となり生徒達が騒ぎだし、ついに学校ストライキ(同盟休校事件)にまで発展した。

当時、市内寺裏に私立北越学館という学校があり、そちらの名声に惹かれて転校する者も続出し、生徒数も激減していた中で、本校は休校状態に陥ってしまったのである。

生徒は登校せず、しかも一部県教育関係者からは、県内にまだ公立中学校が無かったので、これを機会に商業学校を廃校にしてその設備を転用し中学校を設立しようという動きも出たため、正に存亡の危機に直面したのである。

この難局を乗り切るために、学校は生徒に出校を命じ、従わないものは退学処分とすると通知を出す一方、市当局は新たに東京高等商業学校出身の新進気鋭の教員を3名任用すると同時に、同じく東京高等商業学校を卒業後アメリカに留学していた宇尾野藤八を第五代校長に任命し、学校の再建を託した。

当時まだ28歳だった宇尾野校長は、1890年(明治23年)1月に着任してから約4年間の在任中、文字通り東奔西走され、本校の再建と発展のために献身的努力をささげられた。

着任早々、本科三年の他に、予科二年の制度を設けた。予科では高等小学校の学課を学ぶのだが、当時生徒数が二十数名の本校は、いつ市議会から廃校決議をされかねない状況だったため、それを乗り切るため生徒数を増やす苦肉の策であったらしい。そのため新学期には本科生約50名、予科生約60名で100名を超える人数となり、廃校の意見は自然消滅となった。また、1890年(明治23年)には速成科(夜学)を創設し、昼間通学できない店員などを収容することとした。(1897年廃止)

そころが今度は生徒数が増えたため、校舎が手狭になり、増築の必要にせまられたが、市費からの経費捻出は到底見込めなかった。そこで宇尾野校長自ら寄付金集めに奔走し、校地を拡張し新校舎を増築した。

教育内容の充実にも努められ、特に将来の貿易実務等への配慮から英語教育に大変力を入れた。1894年(明治27年)の教育課程によると各学年とも週8時間、週授業時間の実に4分の1近くが英語の授業を行なっていた。その上当時は実業学校用の教科書はあまりつくられていなかったため、他の科目で英文の原書を使用する学科もあり、英語の占める比重は極めて大きかった。

1919年(昭和8年)秋・宇尾野校長胸像除幕式

このように、宇尾野校長の努力は徐々に実を結びその後本校の発展の地固めがなされた。宇尾野校長は1893年(明治26年)秋、第四銀行重役に転じたが、その後の校長も第六代小松辰吉、七代中村米吉、八代信夫淳平、九代関一とめまぐるしくかわるも、生徒数も200名を超えるようになり、県内唯一の商業学校として新潟市内だけでなく広く県内各地から入学生を集めるようになった。

1892年(明治25年)には、尋常中学校(後に尋常をとり「中学校」と呼ばれるようになる)の学科程度と同等の学校である認定を得、市外から通学する生徒のために寄宿舎を新設し、その2年後には雨天体操場が新設されるなど、順調に発展していったのである。

当時の卒業生達は宇尾野校長を本校の「中興の士」として尊敬した。その後1919年(昭和8年)秋、創立50周年記念事業の一つとして、同校長の胸像を建立して、その功績を顕彰したのである。 (この像は戦時中の金属回収で供出されたが、戦後に再建された)

 

私立北越学館

1887年(明治20年)に設立された「キリスト教の基礎の上に近代学術を教える高等教育」を目指し、有志が設立した学校。外国人教師もおり、一時はアメリカから帰国したばかりの内村鑑三が教頭として赴任し、自ら宗教・哲学の名講義をするなど、市内好学の青少年の間で評判が高かった。

参考資料



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