top of page

三校ボートレース事件

漕艇大会の判定を巡り、新潟中学校生徒と衝突

 
1905年(明治38年)
信濃川で開催された三校端艇競漕会

1905(明治38)年10月、新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校 以下、新潟中学)、新潟師範学校(当時)、商業学校(1906年に県立新潟商業学校と改称される)の3校が参加し、信濃川・万代橋付近で、「三校端艇競漕会」が催された。当時、漕艇は新潟市民にとっても大きな娯楽であり、この漕艇競技会も市民の高い関心を集め、大会はおおいに盛り上がった。

最終レース、新潟中学、商業学校いずれかの勝者が優勝という場面になり、接戦の末、判定で商業学校が勝利、優勝と認められるも、新潟中学側は「ゴール直前に両校のオールが触れたため、無効・再レース」と主張し、結局、優勝旗を新潟中学が持ち帰ってしまう。 

商業学校側は再レースを承諾せず、新潟中学が優勝旗を持ち帰ったことを非難。一方中学側も引かず、両校の対立は深刻化する。 県の仲裁も実を結ばず、結局新潟中学側の優勝旗の保有は認めたものの、校外に持ち出すことを禁止した。 10月22日の新潟新聞には「県教育界の大失態」と見出しを打ち、連日この件が大きく報じられた。

11月3日、商業学校の同窓会(当時)及び有志の市民が独自の優勝旗を作成し、商業学校漕艇部に進呈。商業学校漕艇部がこれを掲げ新潟市街にて提灯行列を挙行した。この際、商業学校生徒は中学生徒を嘲笑するような歌を歌っていたといわれている。この提灯行列に先立ち、商業学校側が発行した「漕艇競技会を記念した絵葉書」を作成した事も、新潟中学側を刺激した要因となっていた。新潟中学の生徒はこれに反発し、この提灯行列と衝突し乱闘事件となった。

6日、新潟中学生徒約150人が商業学校側優勝旗を奪おうと商業学校校舎(現・新潟大学歯学部付近)に押しかけ、商業学校生徒と衝突。商業学校生徒は銃剣などを持ち出して応戦し、ついには硫酸の瓶まで飛び交い、両校に数十人の負傷者を出す事態となった。結局、校舎から押し返された形となった中学校生徒は一旦中学校舎に戻り体制の立て直しを計ったが、中学教員による決死の説得に応じ、解散したという。

翌日には東京の新聞にも大々的に報じられた。特に生徒達を制止できなかったとして中学校教員に対する批判が強く、結局中学校校長が引責辞任することとなってしまった。また、県会では県知事の問責案が提出され、委員会による調査が行われるなど、県政にも大きな影響を及ぼした。

新潟県が翌年1月に事件の処分を決定するも、両校生徒を直接処罰はせず、両校がそれぞれ所有していた優勝旗を擬人化し、そして激しく問責した。優勝旗をそれぞれ3等分し、新潟師範学校を含めた三校にそれぞれ配分する事で、事件は収束した。



握手をする青山漕艇会の佐藤会長 と葦原同窓会石堂会長(当時)

事件の背景には、両校生徒の、それぞれの母校に対する強い思いがあった。しかし、流血の事態にまで至ったこの事件は本校の長い歴史の中で反省すべき一大不祥事件である。また、新潟中学側も、同様の見解を「青山百年史」の中で綴っている。

この事件から丁度100年の節目に当たる2005(平成17)年、葦原同窓会総会に青山漕艇会会長・副会長を来賓として招き、「和解の握手」を改めて行った。来賓として出席した 佐藤勝弘青山漕艇会会長は「両校が切磋琢磨し、新潟を盛り上げる事が100年前の先輩達の願いかもしれない」と挨拶し、両校の新しいライバル関係に期待を寄せた。





 

三校端艇競漕会

新潟師範学校、新潟中学校(現新潟高校)、県立商業学校(現新潟商業高)の3校で行われたボートレース大会。第1回は1901年(明治34年)に行われ、明治38年は2度目の開催だった。レースは3回行い、第1選手から第3選手までの得点を合計し競った。各校とも強化合宿を行い後援組織を立ち上げるなど、加熱していた。市民の関心も高く、連日大会の勝敗予想が新聞各紙に掲載されたとも言われている。事件以後、この三校漕艇競争会は行われなくなった。

参考資料




bottom of page