船員養成を目指すも僅か5年で廃止
1910年(明治43年)
1910年(明治43年)4月1日、新たに商船科課程が設置される事になり、校名も「新潟県立新潟商業商船学校」と改称された。
商船科はさらに航海科と機関科に分かれ、いずれも本科3ヵ年の上に実習年限が3年、3年半あり、計6年と6年半制であった。
時代は日露戦争の後で、一般に大陸進出・海外発展の気運が高まり、新潟でも日本海をはさんだ対岸貿易や北洋漁業進出に大いに関心が高まっていた。1907年(明治40年)、新潟-ウラジオストック間の直行航路が開設され、翌年には日露漁業協約によってオホーツク海などの北洋の漁業権を獲得、新潟港からも多くの漁船が出漁するようになった。1909年(明治42年)から大正前半期にかけて毎年100隻以上が出漁しており、このような情勢を背景に、新潟市内に商船学校設置を求める声が上った。市は財政上の問題から新潟商業学校内に商船科を設置するように県当局者に求め、1909年(明治42年)11月の県会で決定された。
1910年(明治43年)8月には夏休みを利用してのロシア・ウラジオストック市を訪れる見学旅行が行なわれた。これは当時対岸貿易に力を入れていた貿易商社の北斗商会が企画募集したものであったが、本校の生徒が主力をなした旅行団であり、一行57名中、本校関係者が42名を占めていた。
商船科併設直前に発行された「県報」号外によれば商船科第1学年航海・機関科各10名が募集された。授業内容は航海科では結索・編索・漕艇・帆前・操練・信号など、機関科では鍛工・仕上・機械・汽罐(ボイラー)の運転などの自修が行われる予定であった。
運動場には練習用の陸上帆(マスト)が作られ、1912年(明治45年)6月下旬には、練習船として廃艦となった木造軍艦「磐城丸」(800トン)を払下げてもらった。
しかし、せっかく設けられた商船科もふたをあけてみれば入学希望者は少数で、1912年(大正元年)には「10月には商船科廃止」と新聞に記事が掲載されるなど、前途は多難であった。
当時は第1次世界大戦前で国内の景気が停滞していた事もあり、県会でも商船科は“不経済な存在”として槍玉にあげられ、1915年(大正4年)3月限りでついに廃止の憂き目にあった。
こうして、商船科は僅か5ヵ年、正式には1回も卒業生を送り出さないまま、その幕を閉じたのであった。当時の在校生本科17名、実習生23名は遠く山口県立大島商船学校(現・大島商船高等専門学校)へ委託生として転校させられることとなった。
商船科廃止に伴い、校名はもとの「新潟県立新潟商業学校」に復したが、ここにいたるまでの間の校名の変更はめまぐるしいほどであった。
ウラジオストック
ロシア極東地方の都市で、沿海州の州都。ロシア帝国時代から重要な港湾都市として発展してきた。新潟市の姉妹都市でもある。
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