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大正-昭和初期の葦原スポーツ黄金期

籠球・柔道・庭球をはじめ全国制覇も数多く

 
大正-昭和初期


甲子園に出場した野球部(大正15年)

新潟商業高は部活動が盛んな事で知られているが、その始めを確認できるのは明治30年代で、談話・撃剣・端艇(ボート)・野球の4つの部があった。その後も部活動の数は増加し、特に1911(明治44年)、現在の白山浦の地に移転し広大な校地を手に入れた事から、部活動がより盛んに行なわれるようになった。

野球部は1922年(大正11年)に全国中等学校優勝野球大会(現在の高等学校野球選手権大会)の出場権を得たものの主将の病気のため出場を辞退、翌年には同大会に見事出場を果たした。優勝候補の一角とされた(「新潟新聞」大正11年8月12日付)が、2回戦で敗退した。3年後の1926年(大正15年)にも同大会に出場、この時の会場が阪神甲子園球場であり、新潟商業にとって初めての甲子園出場となった。

籠球部は、運動部の中で最も輝かしい成果を残した。新潟県にバスケットボールが紹介されたのは1921年(大正10年)頃といわれているが、本校の籠球部は1926年(大正15年)に創設されている。その後短期間のうちに長足の進歩を遂げ、1930年(昭和5年)の全国中等学校籠球選手権の決勝戦で新潟中学校と対戦し、これに勝利し全国制覇を成し遂げた。その後1932年(昭和7年)から3年連続で全国大会第三部(実業学校の部)にて連続優勝を果たした。さらに1939年(昭和14年)にも優勝を成し遂げており、横山堅七、吉井精三郎、吉井四郎、高橋実ら全日本級の名選手を多数輩出している。

庭球部は1934年(昭和9年)の全国男子中等学校庭球選手権大会のダブルス決勝戦で、佐藤・高橋組が高崎商業を破り見事優勝を果たした。また柔道部も1937年(昭和12年)の全国中等学校柔道大会で優勝した。

相撲部も1927年(昭和2年)の全国大会で3位、4年後の1931年(昭和6年)の全国大会で2位。陸上競技部も1925年(大正14年)の全国大会で団体6位に入るなど、全国レベルのクラブが多数あった。もちろん、県レベルで優れた成績を修めていた部も多数あった。


当時の職員であった中野二三氏は次のように回想している。

 
黄金時代とまでいわれた当時の新商の活躍ぶりは実に素晴らしいもので、スポーツは勿論弁論その他実務競技にいたるまで、あらゆる方面に進出して一時は県下一の優勝旗、優勝盃の悉(ことごと)くを獲得し、さらに全国大会においてもめざましく、特にバスケット、テニス等は全国制覇をなしとげ、籠球王国新商の名を天下に謳われたのである。殊に昭和十一年のベルリンオリンピック大会に本校卒業生の風間栄一、横山堅七、吉井精三郎の三君を選手として、それに同校の五十嵐浩平教諭の壮行会を催した。その盛大な光景は今なお眼瞼にあざやかに残っている。(七十周年記念誌より)
 





 

参考資料
  1. 葦原百年史

  2. 葦原120周年史




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