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文化部の興隆

産業調査部・音楽部・珠算部などが活躍

 
昭和初期
同好会から昇格した音楽部

運動部の輝かしい活躍ぶりに刺激されたように、文化関係のクラブも次々と新設され、活発化してきた。クラブの組織状況も1927年(昭和2年)から10年の間に6つ(園芸、珠算、音楽、商業美術、産業調査、卓球)の新クラブが出来たが、特に文化・実務関係の増加が目立ち、活動が多彩になってきている。中でも産業調査部は毎年産業調査報告書を出版していたが、西川銘柄米、毒消売の研究など中等学校生のレベルを遥かに超えたもので、中央の雑誌に転載批評されたほどであったと云われている。郷土研究班は文部省補助による教室一杯の新潟市模型を所有し、その他新潟の古書、出土品など貴重な資料を所有していたが、1946年(昭和21年)の火災で残念な事に消失してしまった。弁論部は福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)主催の北関東東北中等学校大会に遠征して優勝を成し遂げている。

校内弁論大会の様子

しかし部の数が増えることはそれだけ校友会予算を圧迫する事になるという既存各部の思惑打算に加え、当時は質実剛健を尊ぶ気風から、とかく音楽や文芸などの芸術文化などに興味を持つ事は男子にとって好ましくないとみなす風潮もあった事から、文科系や実務系のクラブにはその設立に当たって、色々と苦心もあったようであるが、その圧力にも耐えて着実に根をおろしていった。

例えば、音楽部設立に当たり、大正末年ようやく地方都市にも洋楽に対する関心がおこってきた頃、同好の士が集まり楽器の練習を始めたが、教師からも一般生徒からもこころよく受け止められなかったようである。

 
われわれは甚しき異端児であるとの印象を持って迎えられた。練習する場所もなかなか貸してくれない。それでも百方運動の結果ようやくある教室を借りたが、最初の練習にたまたま誰かが『春雨』を奏したことによって、神聖なる教室でゲイシャガールの奏する三味線音楽をやるのはもっての外と御叱責、いっぺんにおじゃんになってしまった。そのため以後青空の下で練習しなければならないことになった。(旧38回卒・島恭平の回顧より)
 

このように苦心を重ねたが、新潟で初めて行なわれたラジオの実験放送にグループで出演し名をうり、ようやく学校側に認められたという。その後1925年(大正14年)講堂で第1回定期演奏会(ハーモニカ演奏会)を開催すると高等学校や中学校の生徒まで聴きにくるなど大好評であった。当時、ハーモニカバンドは県内はもちろん、全国でも最も古い方に入る。

書道部や珠算部も同様で、例えば書道部は1932年(昭和7年)に3年生が中心となり同好会を作ったのが始まりであるが、上級生の乱暴者から下級生のくせにそのようなことを始めて甚だ生意気だというわけで随分乱暴され、練習も妨害を受ける有様であったが、それに耐えるうちに上級生の加入者もあり、次第にみんなから認められるようになった。やがて迫害を加えた者が就職期が近づいた頃に「おい俺の履歴書を書いてくれや」と頭を下げて頼みに来るほどになった。

1929年(昭和4年)、信越地方商業学校珠算タイプライティング競技会珠算の部に主催校の顔を立てるのと、県庁所在地の商業学校という面子から出場した本校は見事優勝し、これがきっかけとなり珠算クラブ(葦原珠算会)が発足する事となった。当時は読み・書き・そろばんといった思想が強かった事もあり、会員募集は容易でまたたく間に百名ほど集まった。他の部から“珠算部の予算を削れ”などの声も聞かれるようになるなど圧力もあったが、部の活動は年々盛んになっていったという。




 

参考資料
  1. 葦原百年史

  2. 葦原120周年史




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