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白山浦2代目校舎の建設

突然の校舎焼失と校舎再建の奇跡

 
1946年(昭和21年)
校舎焼失を報じる当時の新聞記事

終戦からわずか半年後、本校は思いもよらぬ失火により校舎を失うという一大悲運に見舞われた。1946年(昭和21年)2月9日未明、原因不明の火災により1911年(明治44年)に建てられて以来35年間、その威容を誇っていた校舎は講堂と武道場を残し、全焼してしまった。

その場に駆けつけた倉田久男(旧制第62回)は








 
長い間の伝統と歴史を秘めてきた正面の角のように立っている二本の塔は今や不気味な響きをたてて大地に崩れ落ちる瞬間であった。その前に突立って施す術もなくただ茫然と眺める外手のなかった私の頬には何時の間にか悲憤の涙が止めどなく伝わってきた。
 

と回想している。

かろうじて学籍簿その他若干の重要書類が搬出されたが、それ以外の重要書類や創立以来の多くの貴重な蔵書類などの殆どを失ってしまった。

しばらく休業の後、2月21日から授業が再開されたが、かろうじて焼け残った講堂と武道場を仕切って教室としたほか、工業学校、新潟中学校の教室を借りるなど、不自由な間借り生活でしのいだ。この年の卒業式は関屋小学校の体育館を借りて行われた。(翌年7月より、旧夜間中学校舎を改造し授業を行う)

3月15日、着任したばかりの大田浩校長はただちに校舎復興に着手し、職員、同窓会、在校生こぞって復興に立ち上がった。しかしながら、終戦直後の物資難に加え、県内には他にも多数の被災校があり、県費による復興は全く絶望的であった。

5月、大田校長歓迎会の席上、新商復興後援会が結成され、同窓会の卒業年度ごとに実行委員を依属し大がかりな募金活動を行う事とした。この頃、白山浦より郊外に移転してはどうかと言う意見もあったが、あくまで伝統の葦原の地に校舎を再建したいという熱意が通り、敷地内に新築する事決した。

1947年(昭和22年)4月、学校・同窓会・父兄後援会・新潟県・新潟市の五者協議会が開かれ、学校再建の方針が決定すると共に、工事費負担の配分が決められた。総工費300万円のうち、県が150万、市が50万を拠出し、学校が100万円を集める事となった。この100万円を集めるため、生徒有志が街頭に立ち宝くじを販売し利益を寄付するといったこともあり、同窓会員・父兄の寄付も併せ、驚くほどの早さで目標額の募金が集まった。

1948年(昭和23年)3月に第1期工事が完成し、新しい体育館で卒業式を挙行する事ができた。新制高等学校としての発足も新校舎においてであり、復興事業は一段落した。しかし、この段階ではまだ本館が再建されていなかった。


1950年(昭和25年)、不死鳥の如く再建された、堂々たる本館

その後、5期にわたる復興事業が再開される事となり、1949年(昭和24年)復興委員会が再建された。第2期工事の総工費600万円のうち地元負担は300万円。市に補助を申請すると共に募金活動も再開された。同窓会の実行委員を中心に、PTA会員、学級主任も精力的に募金を呼びかけた。また、校長、復興会長、実行委員長らは市内の企業をまわり大口の寄付を仰いだ。その結果1950年(昭和25年)2月、第2期工事として本館(2階建・324坪)が完成し、同年5月には三笠宮を迎えて全国レスリング大会を開催する事ができた。

その後1951年(昭和26年)第3期工事(4教室120坪)を完了し、翌年10月に第4期工事(教室・特別教室・商品陳列室 199坪)の完了を持ち、復興事業は一旦終止符を打った。1953年(昭和28年)、創立70周年記念事業として復興後援会は5度目の募金活動を開始したが、不景気もあり大口寄付が思うように集まらず苦しい活動となった。しかし、実行委員の努力と同窓会員の母校愛、市の好意や地元産業関係者の協力に支えられ目標額を達成し、同年9月に商業実践室(96坪)、12月に図書館(120坪)が完成した。

終戦直後の混乱期に校舎を焼失するという不幸の中から旺盛な復興精神を持って立ち上がり、以前よりも充実した学校を建設した事は、まさに奇跡的であった。この奇跡を実現したのは、学校職員、同窓生、父兄、在校生、そして地元の方々の一致協力であった。




 

第二新潟工業学校

本校の1944年(昭和19)4月から1946年(昭和21年)3月までの校名。戦時非常処置に基づく学校転換により、本校のみならず全国の殆どの商業学校が工業又は農業学校に転科を強いられた。火災当時はこの校名だった。1946年(昭和21年)4月「県立新潟商業学校」に復している。

参考資料



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