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戦時下の新潟商業生

勤労動員と学科転換

 
1943年(昭和18年)-1945年(昭和20年)
創立60周年記念

昭和10年代に入ると日中戦争・太平洋戦争の影響で学校内にも鍛錬主義の教育をはじめ様々なところで軍事色が強くなってきた。

各部活動も組織再編成が行われ、国防訓練部、鍛錬部、学芸部に大別され、その中に班が置かれた。国防訓練部が目を引くが、その中には銃剣術・射撃・滑空(グライダー)などの各班が含まれていた。

このような中、本校は創立60周年を迎えた(1943年)。記念式で

 
決戦下ますますこの伝統を保持して進まれん事を祈る。(新潟日報1943年11月2日付)
 

という言葉が述べられるなど、世相を反映した式となったようである。時節柄、50周年と比べると規模が縮小されたようだが、11月1日から3日間にわたり、多くの行事が行われた。

この頃は戦争が長引き、食料・衣料品から日用品に至るまで自由販売が禁止され配給制となっていた。そのような戦時統制経済の強化に伴い、自由取引を基調とする特別な商業教育を行う必要はないという、いわば商業教育無用論が台頭してきた。やがて戦局はますます重大化し、多数の青年達を兵士として動員された後をうめるために軍需産業の現場に大量の労働力を投入する必要に迫られた政府は、商業学校の工業又は農業学校への転科をはかるという非常手段を決定した。

このような政府の強硬方針を受け、県当局も県内の男子商業学校及び商業学科を全部転科させる方針を決めた。それに対してなんとか商業教育を守ろうとする抵抗も戦時非常事態を盾にした強権の前に虚しく押し切られた。

かくして、新潟・長岡・新発田・柏崎の県内4商業学校は1944年(昭和19年)4月から一斉に工業学校に転科して新入生を募集する事となった。

本校は校名も「第二新潟工業学校」と改称され、電気通信科二学級と土木科一学級を募集する事となった。しかし、このような時代に簡単に教員を集めたり新しい施設や設備を整えられるはずもなく、上級生が勤労動員に出払った後、1・2年生が勤労作業をやりながらかろうじて授業を受けていたが、製図実習をやるにも設備が無いので週1~2回、浜浦町の新潟工業学校(現・新潟工業高)まで出向き、製図器具を借用して実習をおこなうという有様であった。

1944年(昭和19年)、いよいよ戦局も切迫してくると、全面的な勤労動員が実施されるようになり、学校生活が犠牲にされ、上級生は授業も殆ど不可能になった。4月頃から全国の学徒は校門を出て軍需工場へ動員された。本県でも実業学校の生徒は3年生以上が通年動員の対象とされ、本校生も市内の鉄工所へ動員された。


出陣学徒(1944年)

1943年(昭和18年)12月、学徒出陣が始まった。中等学校でも戦闘機の搭乗員の養成が早急且つ大量に必要となったため、軍の強力な圧力の下に、各学校では上級生を対象に海軍甲種飛行予科訓練生(予科練)の募集勧誘が活発に行われた。そのため多くの若者達が学窓を離れ、続々と予科練に入隊した。本校でも1944年(昭和19年)11月19日、予科練に入隊する生徒に対する壮大な壮行式を挙行した。当時の新聞は「いざ元気で壮け!さかんな新商出陣学徒壮行式」という見出してその様子を伝えている。

戦局は益々深刻となる中、勤労動員も一層強化されるようになった。中等学校低学年にまで随時動員が拡大されると共に、上級学年はついに県外動員が実施された。本県の生徒は中京地区へ大挙出動させられた。生徒達は食糧不足や空襲の危険の中で生まれてはじめて親元を離れて働かねばならなくなった。本校生も4年生は引き続き市内の鉄工所で働く事となったため、5年生と3年生の計約400名が新潟中学校及び長岡商業学校の生徒と共に名古屋市の愛知航空会社へ配属された。

しかし、会社側の受け入れ態勢も悪く、特に食事は食べ盛りの生徒にとって足りるものではなく、栄養失調のためみるみる体力が落ち、脚気患者が続出するという、痛ましい状況であった。そして1945年(昭和20年)に入ると本土への空襲も本格化し、動員先の工場もついに6月戦火にやられた。米軍機による空襲により工場は焼失し、その後別の工場へ移転させられ、そのまま8月の終戦を迎えた。幸いな事に無事、一人の犠牲者も出さずに帰郷できたことが唯一の救いであった。

一方、新潟では悲劇が起こった。1945年(昭和20年)7月2日、本校生を含む動員中の生徒はじめ50人あまりが乗船していた艀が触雷した。艀は一瞬にして爆発、水没し、33名が即死すると言う大惨事となってしまい、その中には本校生3名も含む、計12名の生徒の命も犠牲となった。しかし、この事件も戦時下の機密とされ、当時は新聞などで報じられる事もなかった。(鉄工丸事件)

そして、8月15日。日本はポツダム宣言を受託し、連合軍に対し無条件降伏し、戦争は終結した。9月になり、勤労動員の生徒も帰校し、ようやく全校生徒が揃っての授業が開始されたのである。翌年4月には学制改革により、「新潟商業学校」に復帰した。戦後の混乱の中、それまでの軍国主義をはじめとした戦時教育が払拭され、新時代の民主主義教育の模索が始まった。




 

学徒出陣

太平洋戦争の末期、1943年(昭和18年)、兵力不足を補うために高等教育機関(現在の大学等)に在籍する20歳以上の学生を出征させた事を指す。それまでは高等教育機関に在籍するものは26歳までは徴兵を猶予されていた。

参考資料



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