top of page

新制高等学校と男女共学

新潟商業の戦後の幕開け

 
1948年(昭和23年)
新潟商業高校の女子生徒1回生

1948年(昭和23年)、戦後の学制改革により、新潟商業学校も「新潟県立新潟商業高等学校」として、産業経済人として必要な知識・技能の修得と見識の高揚を教育目標にかかげ再出発した。

同時に男女共学に踏み切り、初めての女子生徒6名が入学した。学校側は当時、全生徒中一割にも満たない女子生徒が萎縮する事が無いよう、女子部を特設し苦情処理機関とするなど、その保護に努めたが、その必要もないほど女子生徒達は伸び伸びと行動し、華道クラブを新設したり、タイプ部に入部し特技を発揮するなど、男の世界に新風を吹き込みながら、高校生活をエンジョイしていた。当時の女生徒は学校生活を下記のように振り返っている。


 
共学の第一歩を若草を踏むようなはずむ胸で、諸先生の指導と上級生の愛顧と、それに同級生との親睦で楽しく勉強致しました。なにしろ見るもの聞くもの皆男の世界です。『朱に交われば赤くなる』という諺のように、悪くとれば女らしさがなく粗野になり、逆に良くとれば男の世界から受ける長所を自然とキャッチすることができます。(女子卒業生1回生・片桐一伊)
 
懐かしく希望にあふれた良い時代でした・・・・・・・・・。私達が入学した時は4クラスあって、女生徒がわずか6人。2年生は3クラスで女生徒は3人。3年生は女生徒は全くいないのです。ですけど、入学した私たちは何かを決心して芯の強い人(ただし心は優しく、純情で正義感に燃える人たち)たちで、それぞれ個性を持った良い人たちでした。男性の方といったら、驚いたことに可憐な私たちと違って、おとなっぽく男くさい生徒で、中にはオジさんみたいな人もいて、今の人たちみたいにオシャレなどしなかったから、恐ろしい感じもしました。それもそのはずです。その頃、年齢が上の人もだいぶいたのです。でも中身は皆親切で良いおにいさんたちで、特に3年生のおにいさんたちからかわいがられ、2年生のおねえさんたちからやきもちをやかれました。(女子卒業生2回生・櫛谷宣子)
 

当初、女子生徒には指定の制服が無く、セーラー服、ブレザー、カーディガンなどを着用していたが、女子生徒の増加に伴ない、家庭と学校の両方から制服制定の希望が出されるようになった。そこで生徒の希望をまとめ、昭和27年(1952年)の年度末に現在の制服の型を指定した。しかしこれは全員に強制するものではなかった。制定された制服はその後普及し、夏は白ブラウス、朱赤のネクタイ、紺のベスト、冬は上着(下は自由)姿で通学した。通年ネクタイ着用となったのは昭和31年(1956年)頃といわれている。

それまで男子校の勤務経験しかなかった教師達は、女子教育、特に生活指導面に苦慮した。更衣室などの施設整備を急ぐと共に、水泳授業時の男女混泳の是非が真面目に討議されたりした。女生徒母の会を組織し、校外にも気を配った。特に頭を痛めたのが、男女交際に伴う風紀の乱れへの懸念であった。当時の校長訓話にも、男女を問わず勉学に専念せよ、学校は恋愛の場にあらず、といった口調が見られた。1950年(昭和25年)度末の市内中学高校連絡協議会の席上でも、男女交際の現状について情報交換がされ「現在のところ、あまり危険性なし」という結論に達している。こうした周囲の心配をよそに、新教育の中での男女交際は明るく健全に行われていた。

また、女生徒の就職指導面でも教師達の苦労は大きかったようで、不況下もあり、直接会社訪問をして求人を開拓して廻った。その結果、殆どの女生徒が地元の金融機関や一流の企業などに就職を果たした。





 

参考資料
  1. 葦原百年史




bottom of page