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戦後の葦原スポーツ黄金時代

レスリング・バドミントン・剣道が全国に名を轟かせる

 
昭和30年代
林立する優勝旗・優勝盃

戦争と校舎消失のため中断していたクラブ活動も、1948年(昭和23年)の復旧第1期工事で体育館と教室1棟の完成に伴い、再開する運びとなった。

先ず、生徒全員の希望を調査し、予算不足で力を分散できないので、少数精鋭主義に基づきクラブを設置した。運動部は戦前活躍し有名な先輩の多い部を優先して、野球・陸上競技・体操・籠球・ラグビー・庭球・卓球・相撲・水泳・排球・山岳の11部が発足した。その後、バドミントン・レスリング・柔道・剣道などが誕生した。相撲・レスリングは全国大会優勝を果たし、昭和20年代の新商のスポーツの花形であった。

昭和30年代に入ると運動部の活動はますます活発となり、クラブ数も1963年(昭和38年)には20に達した。学校の大規模化と学区の拡大に伴い、伝統ある新潟商業のクラブに憧れて入学する者が多く、優秀な選手を数多く輩出したのである。

レスリング部(昭和39年)
バレーボール部(昭和38年)

昭和30年代に全国大会に出場したの運動部は、剣道・レスリング・柔道・陸上・相撲・排球・庭球・硬式野球・卓球・籠球・バドミントン・ラグビー・水泳・自転車・軟式野球・重量挙の16部を数える。

中でも全国に新潟商業の名を高めたのは、剣道・レスリング・バドミントンの3部であり、いずれも全国大会に連続出場し優秀な成績を修めた。剣道部は1954年(昭和29年)以来インターハイに連続出場し、1963年(昭和38年)には10年連続出場で表彰された。この間、1961年(昭和36年)には個人優勝を遂げ、1963年(昭和38年)には団体戦でベスト4に進出した。

レスリングとバドミントンは新興スポーツで、伝統の重みが無かった代わりに若さを発揮して全国制覇を実現した。レスリングは当時新潟県の県技といった感があり、国体に出場した新潟県チームは1950年(昭和25年)から1956年(昭和31年)までの間、1951年(昭和26年)に2位となった他は全て優勝している。本校選手は常にその勝利の原動力であった。1953年(昭和28年)に第1回全国高校選抜大会が開催されて以後、新商レスリング部は1962年(昭和37年)までの10年の間に6回の優勝を果たした。

剣道部(昭和38年)

1954年(昭和29年)インターハイにレスリング種目が加えられると、これにも連続出場し、1960年(昭和35年)・1962年(昭和37年)・1964年(昭和39年)には全国優勝を達成した。また、各種大会では個人戦でも活躍し、多くの優勝者を輩出した。

バドミントン部は1960年(昭和35年)からインターハイに連続出場した。中でも1961年(昭和36年)には団体優勝を達成し、個人戦ダブルスにも優勝した。さらに1963年(昭和38年)には団体優勝、個人戦ダブルス一位・二位、シングルス一位を独占した。1964年(昭和39年)は団体で2位入賞もした。

1964年(昭和39年)6月6日から6日間の日程で、第19回国民体育大会(新潟国体)が開催されると、新商の選手も多数出場し活躍した。新潟県はレスリング団体1位、バドミントン団体1位、剣道団体2位、卓球団体2位、庭球団体3位の好成績を修めたが、新商生徒はこれに大きく貢献し「名門新商」の名を全国に轟かせたのである。教員の部でもバドミントン・相撲・バスケット・ラグビー・柔道に本校職員が出場し、バドミントン団体1位、相撲団体2位に入賞した。また、聖火リレーの最終ランナー、閉会式での天皇杯及び同賞状の受賞者も新潟商業の生徒が務めた。

その国体の直後に新潟地震が発生し、新潟商業高も激しく罹災した。グラウンドには地割れが走り、校舎も大きく歪んでしまい、しばらくは不自由な仮設校舎生活を強いられたが、それでも部活動の「黄金時代」は衰えることなく、1967年(昭和42年)頃までは県大会に優勝する部は毎年数多く存在し、全国大会で上位入賞を果たす部もいくつも存在した。





 

参考資料
  1. 葦原百年史

  2. 葦原120周年史




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