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文化部活動の開花

地道な活動が実り、全国大会入賞も多数

 
昭和30年代
全国大会金賞を獲得した器楽部(昭和36年)

日頃華やかな運動部のかげで地道に活動していた文化部がそれまでの精進の成果を開花させるようになったのも、昭和30年代に入ってからである。

旧制商業学校時代からの伝統を持つ実務関係の各クラブは、1948年(昭和28年)に始まった県下実務協議大会に毎回参加して好成績を残していたが、昭和30年代に入るとさらに飛躍的な発展を遂げた。

珠算部は1963年(昭和38年)県大会優勝・全国大会

産業調査部(昭和36年)

佳良賞を獲得し、さらに1964年(昭和39年)から4


年連続して全国高校珠算大会で団体入賞を果たした。タイプ部は1955年(昭和30年)全国大会で和文タイプ3位、1958年(昭和33年)全国大会で英文タイプ3位、1963年(昭和38年)全国大会ではカナタイプ部門で団体・個人ともに3位に入賞した。速記部も1955年(昭和30年)以来の不振を乗り越え、1963年(昭和38年)には県大会で優勝し全国大会でも5位に入賞した。


書道部は北信越学徒競書大会で毎年入賞を果たしてきたが、1961年(昭和36年)と1963年(昭和38年)には見事優勝を果たした。商業美術部・純粋美術部・カメラ部も、県高校商業美術展や県展(新潟県美術展覧会)等に多くの入賞者を輩出した。

1959年(昭和34年)に発足した産業調査部は、県内各地で綿密な調査活動を行っていたが、その成果「衰えゆく沿岸漁業の実態について」は1962年(昭和37年)日本学生論文コンクール(専修大学主催)で第2位(1位該当なし)を獲得した。

音楽部(器楽部)は1951年(昭和26年)に部員12名で再建したが、1955年(昭和30年)に県下で優勝して以来華やかな活動を続け、県大会優勝、全国大会入賞を何度も成し遂げた。特に、1956年(昭和31年)と1961年(昭和36年)には全国大会で金賞を獲得し、日本一のハーモニカバンドとして知られるようになった。一方、1959年(昭和34年)から発表演奏会「新商の夕べ」を開催し、その利益金を肢体不自由児施設「はまぐみ学園」に寄付した。

吹奏楽部は1960年(昭和35年)に生徒会応援団直属の同好会として、部員13名で発足した。当初は運動部 特に野球部の応援を主な目的としており、1963年(昭和38年)には甲子園大会出場を果たした硬式野球部のために盛んな応援を行なった。また学校外の各種行事でも活躍した。一方、1961年(昭和36年)に部に昇格して以来、部員も増え楽器も充実した事で吹奏楽団としての音楽性も高まり、1962年(昭和37年)には関東吹奏楽コンクール新潟県大会に初出場・初優勝の栄誉を得た。

昭和40年代に入っても、産業調査部が1965年(昭和40年)、1971年(昭和46年)、1972年(昭和47年)の3回に渡り、学生広告論文電通賞1位に入賞し文部大臣奨励賞を受けた。吹奏楽部も連続して県大会に入賞した。

現在でも、吹奏楽部、珠算部、産業調査部をはじめとした数多くの文科系クラブが優秀な成績を修めている。

しかし、文化部、運動部共に、クラブ活動の成績は昭和30年代が黄金期であり、1968年(昭和43年)を境に下降線をたどり始めることとなる。





 

参考資料
  1. 葦原百年史




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