新潟地震を乗り越え、復興へ
1964年(昭和39年)
第19回国民体育大会(国体)が閉幕したわずか5日後の1964年(昭和39年)6月16日午後1時2分、新潟地方はマグニチュート7.5、関東大震災に匹敵する大震災に見舞われた。
県営アパートの倒壊、石油タンクの火災、信濃川に架かる昭和大橋が墜ちるなど、特に県都・新潟市の被害は甚大であった。
この地震では本校も大きな被害を受けた。地震直後、道路や校庭から地下水が噴出し、あたりは水で溢れた。校舎も激しい揺れにより、大きく波打つように歪んでしまった。津波の危険が去ると生徒達は順次帰宅したが、交通機関が麻痺していたため、遠方の生徒達は友人宅や職員・親戚宅などに宿泊し、翌日に徒歩で帰宅したものも多かった。
校舎の被害状況は深刻で、本館・中館は傾斜し、新館は被害が最大で倒壊寸前、体育館・講堂も大きく波打ち、第2体育館も倒壊寸前となるなど、鉄筋校舎(現第2校舎)を除き使用不可能となっていた。
そのため、地震後の2週間は臨時休校とし、登校可能な職員・生徒はスコップ持参で被害校舎の後片付けに従事した。
尚、本校生徒・職員宅も約4分の1が破損・浸水などの被害を受け、軽微なものまで含めると大半の者が何らかの被災者となった。
破損した校舎は早急に補強工事が実施され、6月29日より授業を再開した。しかし、短縮授業をはじめとする変則的な状況が続き、夏休みの短縮、運動会・文化祭などの諸行事の中止、修学旅行の翌春への延期など、苦しい試練がその後も続いた。当時の生徒会は全校生徒に対して、
過去において本校が、ほとんど全校舎焼失という大災害から幾多の困難を経て、見事に復興させたその不屈の精神を今ここに受け継ぎ、新しい新商の建設に向かって努力していくのである。そして『名門新商』の伝統の上にさらに光を添えていこうではないか。 (生徒会機関誌「葦原」第6号 より)
と呼びかけ、生徒の一層の奮起を促した。
本校校舎の復旧については、国や県の係官がただちに来校し、復旧方針を検討した。その結果、応急処置として当面使用可能な校舎を補強工事を施し、加えてプレハブの仮設校舎を建設する事となった。これ等の応急処置を実施する間、国・県当局を中心とし、同窓会・PTAなどの協力も得ながら全面改築による新校舎建設の方針が決定された。何度かの計画変更を経て、年末頃までには基本プランが確定された。
これにより、原型復旧を基本としながらも鉄筋校舎への改良復旧と、学校の正面を現在の国道側(当時は幹線道路化する計画段階)に変更するなどの新校舎建設計画が策定された。これに沿う形で1965年(昭和40年)6月に建設予算が確定し、7月半ばに第1校舎の地杭打ちが始まった。こうして地震発生から1年を経て、災害復旧工事が本格的に開始されたのである。
この災害復旧工事が着々と進行していく中、1966年(昭和41年)夏、復旧の先頭に立ち奮闘されていた渡辺一郎校長が急逝するという不幸が発生した。渡辺校長は1962年(昭和37年)本校着任以来、県商業部会長・県高野連会長などの要職を兼務され、その激務のため健康を損ねておられていたにもかかわらず、不調をおして出勤され、本校復興へ尽力されていた。PTA、同窓会、職員、生徒はその死を悼むとともに、その功績を称えるため学校葬を挙行した。
地震から3年後の1967年(昭和42年)、鉄筋コンクリート建築の見違えるような新校舎が完成した。現在の校舎である。工事はまだ継続されるものの、校舎復旧に一応の区切りをつけることとなり、この年を『復旧記念の年』として各種記念行事を実施する事となった。9月に記念運動会を盛大に実施した後、10月28日には新築された講堂にて災害校舎復旧落成式を挙行し、併せて記念文化祭も開催された。
式典の中で、渡辺校長の後任として着任していた菊地政次校長は「校舎復旧に示された国・県・PTA・同窓会・地域社会などの援助に感謝し、また復旧途上で倒れた渡辺前校長の意思を汲みとって、このように恵まれた校舎・施設の中で勉強できる幸福をかみしめ、多数の人の期待にこたえるべく日夜努力して欲しい。」と要望し、生徒代表からは、すばらしい環境にふさわしい、すぐれた校風の確立を目指し努力する旨の決意が表明された。
記念文化祭としては、展覧会・バザー・音楽演劇会・講演会などの行事が実施され、新しい『葦原城』は復旧の喜びに沸き立ったのであった。
新潟地震
1964年(昭和39年)午後1時2分発生したマグニチュード7.5の地震(震源は粟島沖)。関東大震災以来の大きな震災とされ、液状化現象が確認された初めての地震でもある。新潟県内の死者14名、負傷者368名、全半壊約5万700戸、被災者約32万名、被害総額3千億円といわれている。山形県、秋田県など9県に被害が及んだ。
Comments