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着帽自由化を決定

生徒による自主的な討議を経て

 
1969年(昭和44年)

1968~1969年(昭和43~44年)頃を頂点として全国の大学でいわゆる「学園紛争」の嵐が吹きまくり、その波は高校にも及び、幾多の高校では「生徒の政治活動」問題が発生してきた。新潟市内でも一部の高校で封鎖問題まで起こった例もあった。

本校においても、一部の生徒は卒業式の改革・生徒心得の廃止・自主討論会の開催・自主映画の上映などを要求して、ビラ配布や掲示などを行ったが、生徒全体に対してほとんど影響力は持ちえず、散発的なままに次第に影をひそめていった。

ところで、本校ではこれと同じ頃に制帽問題が大きくクローズアップされ、全校生徒で激しく議論される事となった。これは、すでにかなり前から「制帽を着用する」という服装規定が部分的にせよ守られなくなっていた実態に加えて、他校でも制帽を廃止する動きが強くなっていたことに影響を受けたためと思われる。

生徒会機関誌「葦原」によると、1969年(昭和44年)の生徒総会を機に制帽問題は口火を切られた。3年生一部男子より「着帽の意義・効用が見出せない」と制帽無用論が力説され総会を盛り上げた。しかし、廃帽反対の意見も多数出されたようである。男子からは積極的な意見交換が行なわれたが、直接関係がないと思われたのか、この段階では女子は発言も少なく、始終総会を静観していた。

生徒会中央委員会はさっそくこの問題を大きく取り上げ、波紋は全校に広がった。10月に入り中央委員・実行委員を集めた討論会が開催され、活発な意見が交わされた。引き続き一般生徒の自由討論会・クラス討議がなされ、議論は次第に白熱化してきた。


生徒総会

討論会を重ねるたびに女子の発言も増え、また、廃帽・自由化がはっきり明示されてきた。一般に女子の意見の内容は『制帽は学生らしいし、無帽になったときは男子の不良化が始まり、学校が乱れていくのではないか』という懐疑にかられたものが多かった。

制帽についての意見がだいたい出尽くしたと思われたので、それまでの意見をまとめるものとして10月下旬から11月にかけて、学年集会を各学年で開いた。ここまでで大体、制帽に対しての生徒の態度が明らかになった。初めは大多数が着帽賛成であった女子も、男子の説明に動かされて次第に自由着帽の意見に同意してきた。

投票結果の掲示

次に中央委員会で、制帽問題を全校投票によって決定する事が決議され、11月7日に行なわれた生徒総会によって承認された。続いて12月1日に全校投票が行なわれ、その結果「着帽自由」は大多数の支持を受けた。

生徒会は学校側にその旨を提出し、意見を伺うことになった。学校は職員会議はもとより、PTA、新商OBにも広く意見を求め評議した結果、生徒の決定を認めることとなった。こうして制帽問題は「着帽自由」に決着した。

このように、一見回り道のように見えながらも、時間をかけて十分検討し、手続きをふみ民主的に討議された結果は最大限尊重されるというルールが、本校の中に確立された事を示す好例でもあった。

なお、制帽問題と併せて、女子の服装規定改正問題もくすぶっていたが、リボン・マフラー・ソックスなどについてアンケートが実施され、学校側は生徒の要望をいれて女子の服装規定の一部を改正(自由化)した。しかし、この問題については「制帽問題」のような生徒の自主的な動きはあまり見られなかった。

このように、服装規定などについて新しい動きが起きたのに並行し、応援団のあり方も大きく変わってきた。単に女子生徒の占めるの割合が増加しただけでなく、生徒全体の考え方が合理的あるいは個人主義的に変化したこともあり、それまでの弊衣破帽型のリーダー、一糸乱れぬ統制といったスタイルが生徒に受け入れられなくなってきたものと思われる。


 

制帽(学制帽)

学生帽はかつて全国の小学校から大学までで広く用いられ、主に男子が被っていた。昭和40年代以降、全国的に着帽自由化が進むにつれ次第に廃れてゆき、現在では希少な存在となっている。本校では1892年(明治25年)に制定された、1905年(明治38年)、二蛇両翼一星の校章が配されるようになった。

参考資料



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