学校規模の拡大と発展
1899年(明治32年)
宇尾野校長の退任後も生徒数は増加を続けた。しかし、礎町の校地は狭く屋外運動場も無く、昼食休みには信濃川の堤防で遊ぶ以外になかったという。しかも学校の所在地が風俗上好ましくないという声もあり、学校移転論がおこってきた。新潟市長・鈴木長蔵(本校創始者の一人でもある)は市議会の総意をもって、県に旧師範学校の敷地約3千坪の無償払い下げを申請、県会もこれを承認し、移転新築が決定した。
かくして、1898年(明治31年)移転工事に着手、翌年5月に学校町二番町(現在の新潟大学歯学部校舎付近)に新校舎竣工とともに移転した。
その後旧校舎の解体移転も行なわれ、それまでとは比較にならないほど大きな学校となった。校舎は学校町通に面し、裏山(現在の新潟大学病院付近)はまだ松林に覆われた砂丘で、当時“南山”と呼ばれていた。そこで、学校町のこの地に移転してから1911年(明治44年)に白山浦の現在地に移転するまでの12年間を「南山時代」と称するようになった。
南山に移転した後も校勢の伸張は順調で、県内各地から入学生が集まり、1900年(明治33年)度からは2学級100名の募集となり、定員は一挙に500名となった。翌年度から県費年額2千5百円の補助金が交付されるようになったものの、市立学校であるため新潟市の経費負担は重く、しかも年々市外出身の生徒が増加したために、市議会内でもいつまでも市が経費を出す事に異論が出され、県立移管をすべきであるという意見が関係者の間に強まってきた。
1902年(明治35年)、柏田盛文新潟県知事は「新潟市立商業学校を県立とする件諮問案」を県会に提出した。この中でで知事は県立移管の理由を
時勢の進捗に伴ひ、近年生徒追々増加し、殊に全校生徒の過半は各郡の入学生にして、之に対する諸般の設備費大いに増加し、市は其負担に非常の困難を感ずるのみならず、之が為、市小学校教育の施設を防ぐるの事実あるにより。(「新潟新聞」明治35年11月30日より)
と述べている。
柏田知事はかねてから「教育知事」と称されるほど教育振興に熱意があり、就任後ただちに本県の教育拡充五か年計画を立案し、その計画の1項目に実業教育の振興もかかげられていた。かねて1899年(明治32年)の実業学校令の公布にあたり文部省でも地方機関の実業学校設立を勧奨し、その場合経済力からみて、甲種学校は県立が、乙種学校は市町村率が適当であるとしていたこともあって、五か年計画の中にも3ないし4校の県立実業学校を設置する予定になっており、この点からも県内唯一の商業学校であった本校が県立に移管される事は必然の成り行きであった。
こうして、1903年(明治36年)度からの県立工業学校(現・長岡工業高)及び県立農林学校(現・加茂農林高)両校の新設、そして本校の県立移管が実現したのである。
県立に移管したことに伴い、校名も「新潟県立商業学校」と改称したが、さらに3年後の1906年(明治39年)には所在地名を付け「新潟県立新潟商業学校」と改めた。
実業学校令
1899年(明治32年)、実業学校の増加に伴い、これらを制度的に統一するために制定された勅令。実業学校(農業・工業・商業)のうち、農業・商業は甲種・乙種の区別を設けた。乙種は高等小学校卒で修業年限3・4年制とされた。新潟商業学校は甲種商業学校に位置付けられた。