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渺茫ひらくる日本海は・・校歌制定式

90年歌い継がれる校歌の誕生

 
1922年(大正11年)
大和田愛羅直筆の楽譜

現在まで歌い継がれている本校の校歌は、1922年(大正11年)に制定されたものである。

それ以前には、1902年(明治35年)9月の端艇競争会に歌われた「校歌」(応援歌風のもの)や、現在第一応援歌として歌われている「北シベリアの風荒れて」(旧27回卒・村山利一作詞)を愛唱していた。

そこで、創立40周年を控え、新しい校歌を制定しようとする動きが起こった。

当時の松田安之助校長は伏木照教諭(後の第17代校長)に校歌作成を命じ、伏木の依頼をもとに、本県出身の作詞家・相馬御風に依頼した。後に伏木は次のように回想している。



 
学校の注文も歌い込んでいただかねばならないので、拙い草案を相馬先生にお送りして参考に供した。しばらくたってから立派な歌詞が送られてきた。
 

その贈られてきた校歌の第1節は次の通りである。


 

渺茫ひらくる日本海は、 世界の潮を運びて息まず

洋々流るる長江信濃、不断の自彊を日夜に示す美き哉その名も豊葦原の、岡辺に輝く吾等が母校

美き哉その名も豊葦原の、岡辺に輝く吾等が母校

 

早大の校歌で名をうたわれた先生の作だけに雄大華麗巧緻を極めている。流石、巨匠の作と教務室では「うまいものだ」と口々に言いあっていた。

早速、学校では大和田愛羅に作曲を依頼した。2月上旬に曲が完成し、校歌練習も開始されたが、指導に当たった興田甚次郎(新潟師範学校教諭)は

 
大和田氏の作曲された彼の譜は活気があって血気盛んなる同校の生徒には実に相応しい。(新潟新聞・大正11年2月17日付け)
 

と語っている。

同年3月10日、校歌制定式が行われた。式には作曲者の大和田愛羅も参列、作詞者の相馬御風は欠席であったが

 
・・・貴校の校歌は決して私一個の個人的生活の表現ではありません。其れは実に貴校の運命を思はるヽ皆様方の御抱負の反映であります。私は云はヾ一種の楽器としての役目を能ふ限り誠実につとめましたにすぎません・・・(新潟新聞・大正11年3月11日付け)
 

という祝辞が披露されている。

式典では、大和田愛羅による校歌の模範独唱が行われた後、全生徒約570名による合唱が行われ、式を祝った。

こうして、本県出身の著名な作詞家・作曲家の手により誕生した本校校歌は、その後の新制高等学校以降後も歌い継がれ、90年以上を経た現在でもなお、新潟商業高校生に愛唱されている




 

相馬御風(そうま ぎょふう)

本名は相馬昌治。1883年(明治16年)、新潟県糸魚川町(現・糸魚川市)生まれ。日本の歌謡曲第1号とも言われる大正時代の大ヒット曲「カチューシャの唄」や、童謡「春よこい」の作曲者であり、評論家でもあった。早稲田大学校歌をはじめ、数多くの有名校の校歌を手掛けている。故郷糸魚川に帰郷後は主として良寛の研究にも携わった。1950年(昭和25年)没、享年66歳

大和田愛羅(おおわだ あいら)

参考資料



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