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記事一覧
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戦後の葦原スポーツ黄金時代
レスリング・バドミントン・剣道が全国に名を轟かせる 昭和30年代 戦争と校舎消失のため中断していたクラブ活動も、1948年(昭和23年)の復旧第1期工事で体育館と教室1棟の完成に伴い、再開する運びとなった。 先ず、生徒全員の希望を調査し、予算不足で力を分散できないので、少数...

葦原同窓会
2023年3月26日


文化部活動の開花
地道な活動が実り、全国大会入賞も多数 昭和30年代 日頃華やかな運動部のかげで地道に活動していた文化部がそれまでの精進の成果を開花させるようになったのも、昭和30年代に入ってからである。 旧制商業学校時代からの伝統を持つ実務関係の各クラブは、1948年(昭和28年)に始まっ...

葦原同窓会
2023年3月26日


新潟商業高校内野分校
地域に支えられた、もう一つの新潟商業高校 1964年(昭和39年) 新潟商業高等学校にはかつて、白山浦の本校に加え、内野地区に定時制の分校が併設されていた。本校の定時制を「中心校」と呼んでいたのは、内野分校と区別するためである。...

葦原同窓会
2023年3月26日


新潟国体開催
本県選手団の見事な活躍・本校生も活躍 1964年(昭和39年) 1964年(昭和39年)6月6日から6日間の日程で、第19回国民体育大会春季大会が新潟市を中心として開催された。この国体は同年秋に開催される東京オリンピックのリハーサルとしても重要視され、全国から約1万8千名の...

葦原同窓会
2023年3月26日


白山浦3代目校舎の建設
新潟地震を乗り越え、復興へ 1964年(昭和39年) 第19回国民体育大会(国体)が閉幕したわずか5日後の1964年(昭和39年)6月16日午後1時2分、新潟地方はマグニチュート7.5、関東大震災に匹敵する大震災に見舞われた。...

葦原同窓会
2023年3月26日


着帽自由化を決定
生徒による自主的な討議を経て 1969年(昭和44年) 1968~1969年(昭和43~44年)頃を頂点として全国の大学でいわゆる「学園紛争」の嵐が吹きまくり、その波は高校にも及び、幾多の高校では「生徒の政治活動」問題が発生してきた。新潟市内でも一部の高校で封鎖問題まで起こ...

葦原同窓会
2023年3月26日


情報処理科の設置
情報処理技術者試験合格者を輩出 1986年(昭和61年) 本校は1948年(昭和23年)に新制高等学校として再発足して以来、商業科単一学科のみを設置してきた。また、1973年(昭和48年)の教育課程改訂にあたり、それまでの類型制を廃止して選択制を採用したため、それ以後小学科...

葦原同窓会
2023年3月26日


校章制定と明治期の校風
二蛇両翼一星の校章の元に 1905年(明治38年) 明治38年(1905年)、帽章をそれまでの「商」から二蛇両翼一星に本校のイニシャルN・Cを配置したものに改め、これを校章として制定した。この二蛇両翼一星は現在でも本校の校章として使用されている。...

葦原同窓会
2023年3月26日


南山校舎への移転と県立移管
学校規模の拡大と発展 1899年(明治32年) 宇尾野校長の退任後も生徒数は増加を続けた。しかし、礎町の校地は狭く屋外運動場も無く、昼食休みには信濃川の堤防で遊ぶ以外になかったという。しかも学校の所在地が風俗上好ましくないという声もあり、学校移転論がおこってきた。新潟市長・...

葦原同窓会
2023年3月26日


進学対策の強化と国際教養科の設置
真の国際人の育成を目指して 1996年(平成8年) 1986年(昭和61年)、進学についての議論が校内で始まった。本校生徒の卒業後の進路はそれまで圧倒的に就職が多かったが、社会の高学歴化を反映して、次第に進学希望者が増えてきた。これに応えるには、それまでの選択制の範囲内では...

葦原同窓会
2023年3月26日


新潟商業の創設 尾崎行雄と北越興商会
全国で6番目の商業学校として開校 1883年(明治16年) 明治維新から間もない当時、産業界は急速に近代化が進み、東京や大阪を始め各都市で商法会議所が設立された。 新潟でも、当時新潟新聞の主筆であった尾崎行雄が主唱者となり、1881年(明治14年)『北越興商会』が設立された...

葦原同窓会
2023年3月26日
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